自分はこれまで、花の中では桜がもっとも綺麗だとおもっ てきた。 桜が咲く時期はみじかい。さむい冬を抜けると、いっぺ んに満開になる。開花期間は、そのあでやかな散りざま もあってか、なおのこと短くかんじる。それゆえに美し い。 しかし、最近は、桜よりも梅のほうが、あるいは綺麗な んじゃないかとおもうようになった。 どうやら、江戸期以前は、春の花というと、桜よりも梅 だったそうだ。諸説あるが、桜の散りざまが武士道につ うずるということで、江戸期に、春の花というと桜とい うイメージがひろがったということだ。 桜は美しい。桜は各地でみることができる。満開の時期 はいたるところが仙境だ。 けれど、桜よりも早く春のおとずれをおしえ、そして桜 よりも控えめに咲く梅が、じつは桜よりも美しいと、最 近はおもうようになった。 いうなれば、桜は綺麗すぎる。綺麗でまぶしいがゆえに、 社会のしがらみでくたくたになっている自分からすると、 目を開けているのが恥ずかしい、という気があるのかも しれない。 そこへいくと、梅はいい。梅は春のおとずれを最初に教 えてくれる。そして桜のように自己主張しない。こちら も安心して、春のおとずれをかんじることができる。 正岡子規は、人がかんじる美の基準とは人それぞれであ り、その人の中にあっても時間とともに変化するといっ た。 自分は、桜よりも梅の方が綺麗だと感じるよう、美の基 準がかわった。春になるごとにその美しさに圧倒された 桜が、今はまぶしすぎるとかんじる。 さて、正岡子規に話を転じたいとおもう。 正岡子規は、日本文学史上稀にみる、豪胆で、そして急 激に成長した文学者だ。彼は、短歌や俳句という短詩型 文章を分類整理して、それを文学にまでたかめた。 子規は、古今の短詩を収集し整理するかていで、短詩は 写生であるべきという結論にいたる。彼が晩年読んだ句 は、彼のいう写生がゆきとどき、あるいはそれまでの短 詩型と違った、生きた詩だ。彼がかんじた美というもの が、写生のゆきとどいた文で表現される。 正岡子規の写生という考えをしってから、写生がもたら すものの本質を考えるようになった。なぜ写生なのか。 自分は、それを存在の確らしさだと考えている。空想さ れたものがたりは、作者の脳内で作成されたものがたり にすぎない。それがいかに巧妙で、よく考えられていた としても、それは一人の人間が、その頭のなかで考えた ものだ。いかにそれらしいとしても、存在の確らしさが ない。 実世界でもたらされる事象は、すべての要素の相互作用 の結果である。それは一人の人間が考えられるものでは ない。現実は小説よりも奇なりということだ。 写生は、その現実を写す。写されるものは現実するもの で、それは最大の存在の確らしさをもつ。どんな空想よ りもすぐそこにある現実が、もっとも確らしさをもち、 どんなものより奇跡で、どんなものよりも力強い。 美の基準が人により、時間とともに変化するのだから、 なお写生であることが生きるのだとおもう。