最近、ゴトーさんの文章ヨミニクイよ、というご指摘を いただいた。注文をようやくすると、こうだ。 漢字がおおくて、むずかしい印象をうける。それに実際 にむずかしい言い回しが多いと思う。一文が長いことが あるし、ながいものだから、結局なにがいいたいのかわ からないことがある。 これまで、ご指摘とまったく逆の書きかたになるように 変えてきたつもりだったが、ぜんぜんなってないようだ。 さて、ちょっと話を転じたい。司馬遼太郎の坂の上の雲 をよみはじめて、かれこれ八周目になる。 さいきんでは、坂の上の雲に登場する人物の伝記を探し ては読むようにしている。しかし、どうにも司馬遼太郎 のそれにくらべるとおもしろくないと思う。 歴史的価値としては、伝記本の方がおもしろい。秋山好 古の伝記など、坂の上の雲にはのっていない逸話がおお くのっていて、頬がほころんでくる。 坂の上の雲はおもしろいが、創作のものがたりについて は同意しかねるところもある。私見だが、坂の上の雲は もっと歴史事実に忠実でもよかったと思う。 この本は、すでに司馬遼太郎の真髄が骨頂にたっしてい て、神韻をおびている観があって、おもしろすぎる。ま るで歴史を実際にみているかのような感覚におちいる。 これは彼がたどりついた、彼なりの方法によるものなの だが、それはまた別の機会に紹介するとして。 すぐれた文章でありすぎるがゆえに、場合によっては坂 の上の雲のものがたりを、そのまま歴史と思いこむ人も 少なくないだろう。名著であるがゆえの、ぜいたくな問 題だ。 さて、情報量としては伝記本のほうがおもしろい。では なぜ、坂の上の雲の方がおもしろく感じるのだろう。 司馬遼太郎がつかう文体や言い回しは、彼特有のもので、 それはここで検討する対象ではないと思う。自分の書く 文章にも、ゴトーらしさというものがあって、これはお もしろいうんぬんを決めるものではなくて、筆者の性格 を表現するものだと思う。文章の顔のようなものだ。 それに、司馬遼太郎の特徴的なかきかたである「余談だ が」は、自分としては、失敗の日本語だと思っている。 言い回しがかならずしもすぐれているわけではあるまい。 仮りに司馬遼太郎がパソコンとエディタを使うことがで きれば、縦横無尽に編集ができて、「余談だが」から始 まる、突然の文脈移動を使うことはなかったのではない かと思う。便利な道具がない時代だからこそ、彼が彼な りに工夫した結果ではないかと思う。 別の面から考えると、文体や言い回しなど、司馬遼太郎 のもっている知識は、自分のはるかうえをいっているだ ろう。同じ文章をかくというのは、不可能というものだ。 このてんに関しては、日々研鑚していくいがいに道はあ るまい。 そこで、八周目の読書をはじめて、なぜ司馬遼太郎の文 章はおもしろいのかを気にしながら坂の上の雲を読み始 めたら、あることに気がついた。司馬遼太郎の文章は、 ひらがながとてもおおい。 どこかを例にあげよう。どこでもいいのだけれど、最初 のページの文章をあげてみよう。   多少あでやかすぎるところが難かもしれない  が、子規は、そのあとからつづいた石川啄木の  ようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、  伊代松山の人情や風景ののびやかさをのびやか  なままにうたいあげている点、東北と南海道の  伊予との風土の違いといえるかもしれない。 司馬遼太郎は特徴的な漢字をつかう。その漢字が、これ また絶妙で、味わいの演出がほかの作家とは桁違いにう まい。そのため、その漢字に意識が集中してしまうのだ が、しさいに観察すると、そもそも文章の後半がほとん どひらがなであることにきがついた。 たとえば先の文章を、これまでのゴトー文章で書くとす れば、次のようになる。   多少艶やかすぎるところが難かもしれないが、  子規は、その後から続いた石川啄木の様には、  その故郷に対し複雑な屈折を持たず、伊代松山  の人情や風景ののびやかさをのびやかなままに  詠い挙げている点、東北と南海道の伊予との風  土の違いといえるかもしれない。 おどろいたことに、漢字をふやしただけで、まるで自分 が書いた文章のようになる。 そして、司馬遼太郎の文章よりも、自分の文章の方が、 堅苦しく、読みにくい印象をうける。驚愕せざるをえな いわけだ。 伝記本とくらべると、たしかにその傾向がある。漢字が 多かった伝記本は、読みだすまえに、むずかしさを感じ た。伝記本でも、坂の上の雲とおなじような割り合いで ひらがながつかわれているものは、読みやすく、おもし ろくもあった。 これは日本語変換システムをつかうことができるように なった、ぜいたくな弊害といえるだろう。スペースキー をおせば漢字に変換される。だから、自分が書くことが できない文字であっても使ってしまう。 まさに目からウロコがおちるおもいがした。ようするに、 漢字が多すぎる文章は読みにくいのだ。 この事実にきがついてから、なるべく漢字をひかえて、 ひらがなをつかうようにしている。この文章も、いぜん の自分の文章にくらべれば、だいぶひらがながおおい。 どの割合で漢字とひらがなを使えばよみやすくなるかは、 これから坂の上の雲をしさいに繰り返し読んで研究しよ うとおもう。 これまでの読書でわかったことは、まず、文章の後半、 つまり「思う」「起こった」「使う」「動く」といった ような部分にはひらがなが使われていることだ。また、 漢字である必要がないところには、積極的にひらがなが 使われている。 もちろん、すべてがひらがなでは読みにくいことは、明 らかだろう。日本語は欧米語と違い、単語を空白でつな げる文章形式ではないので、区切りがないとよみにくい。 漢字は文章のくぎりとしての意味ももつので、漢字もひ つようだろう。 漢字とひらがなの織りなす美しさについては、これまで なんどかふれてきたところだ。もっとも読みやすくなる 割り合いがあるというのは、新しい発見だった。